夢想権之助の画像

流祖・夢想権之助


神道夢想流杖術創始者の夢想権之助勝吉は江戸時代初期の剣客である。同流の口伝では名字は山本、諱(いみな)は勝吉である。『武芸流派大事典』によれば本姓は平野、通称は権兵衛。天真正伝香取神道流の奥義(免許皆伝)を究め、更に鹿島神流(又は鹿島神陰流)の流祖・松本備前守(塚原卜伝の師)についても当流の奥義を会得し、極意「一の太刀」を授かったと伝えられる。
慶長の頃(1596~1615年頃)彼は江戸に出て有名な剣客と数多く試合をしたが一度も不覚を取った事はなかった。その器量(体格)は人に勝れたる大男。太刀を差し、柄から剣の先まで筋金を渡した四尺余りの木刀を手に持ち、自分にも劣らぬ程の弟子等を8人も引き連れ、羽二重の一重(ひとえ)羽織に大きな朱の丸を付し、肩先より帯下までに「兵法天下一 日本開山 無双権之助」と金をもって書いたものを着て闊歩していたと言う。 彼は『武稽百人一首』の中にも「武道をば、神の夢想ぞ権之助、自らゆるす天下一の名」と詠まれ、『海上物語』(1666年・堤六左衛門坂行)にもその名が出ている。

ある日、播州明石(現兵庫県)において剣豪宮本武蔵と試合をし、武蔵の使う二天一流の極意である十字留の技にかかり、押すことも退くことも出来ず敗れてしまう。(『海上物語』には「無双権之助と名乗る無礼な男、宮本武蔵に試合を挑み、打ち負かされる」との記載あり)

後日武蔵はこう話したと伝えられている。 「どのように強い者でも仏法の修業の力のない者は土壇場にて臆して不覚をとるものなり」
彼は権之助をして、「天下一の無法者」と言ったともいわれている。

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夢想権之助

ここで権之助は大いに己の非を知る事となる。
当流口伝「夢想流伝」では前記の状況の勝敗は定かでは無いものの、その後権之助は武者修行を続け諸国を遍歴、武蔵の十字留めを打ち破るのに工夫専念。数年後、筑前国(福岡県筑紫野郡)に至り太宰府天満神社に連なる霊峰宝満山に上り、玉依(たまより)姫を報じる竈門(かまど)神社に祈願する事・数十日満願の夜、夢枕に童子が現れ「丸木を持って水月を知れ」との神託を受ける。
そして権之助は「丸い木と水月」の言葉を元に種々工夫し、三尺二寸の太刀より一尺長くして四尺二寸一分、直径八分の樫の丸木を作り、槍、薙刀、太刀の三つの武術を総合した武器術、杖術を編み出し、ついに武蔵の十字留めを破ったと伝えられている。
因に、杖長さの四尺二寸という寸法は、三尺二寸の太刀の長さより一尺長くすることによって、相手の太刀が自分のところまで届かないよう工夫したと言われる。また四尺二寸一分の一分は四尺二寸が、シニ=死に通じるため一分(三ミリ)長くしたとも。
権之助と剣豪武蔵との試合は慶長年間の頃と言われているが、この時代世の中は戦国から太平へと移り変わる時代、つまり関ヶ原の戦いが終わって大阪冬・夏の陣と続いた後、江戸幕府の基盤が出来上がる時期に当たる。
権之助は武蔵に敗れた事によってこの「天下一の無法ぶり」もいつのまにか消え、兵法に対する考え方も変わっていった。

彼は『神道夢想流秘伝』で、次の様に述べている。(大意、意訳もあり)
『我が国においては剣術のみが武術であるとの考えが主流になっている。しかし今後は人を殺さぬことを真理とする杖術こそが、武術の大本となるべきである。
その昔、天地開闢時、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二尊が「天の矛」をもって大海原をかきまぜ、この日本国を創られた。 この「天の矛」こそが棒(杖)であり神国日本の武を代表するものである。 日の神である天照大神も三剣を帯し、武を大いに尊ばれた。
五常(仁、義、礼、智、信)の道徳を守る事も大事ではあるが、それのみではこの国を治める切る事は難しい。武も必要であり、そして武をもって国を治めるには術(理念)が必要である。 よってここに一本の棒を用いた術を創立し、志を持つ人々にこの武術を伝えるものである。 剣をもって人を殺すことが武の本来の道ではない。棒(杖)を持つ者は、人を殺さず任を果たし万事を得ることが出来る様にすべきである。 この書をもってこの様な考えを代々に伝える。』…等云々。
神道夢想流杖術の根本理念は人を殺す事にはあらず、人を救う事にこそある、と。

最後に伝書に記されている杖道の古歌を下に記す。当流の武術に対する考え方が分かり易く表現されている内容となっている。

敵の打ち太刀は 影さへなかりけり 我が稲妻の光満寿ゆへ

突けば槍 払えば長刀 持てば太刀 杖は かくにも外れざりけり

疵つけず 人をこらして戒むる 敎えは杖の ほかにやはある