青い目の武道家 ドン・ドレーガー


名前 Donn. F. Draeger(本名 Donald .F. Draeger)
日本名 努禮雅
師匠 神之田 師範
生年 大正11(1922)年4月15日
場所 米国Wisconsin州(北米五大湖西部)
逝去 昭和57(1982)年10月20日
墓地 アメリカ軍人墓地
享年60歳

七歳の時に柔術を習う

第二次世界大戦の戦闘時に、日本人の戦い方の勇猛なるを目の当たりにして、日本武道というものに強烈な興味を持つ。
戦後(昭和20(1945)年)来日し日本武術を深く研究。そしてその成果を著作本として発表する。
武道歴 神道夢想流杖道免許7段、講道館柔道(5段)、銃剣道4段、剣道、松涛館流空手道、香取神道流等をそれぞれ納める。また、居合い、棒術、鎖鎌術、十手術、短杖術等の修行をする。

柔道の東京オリンピック銀メダリスト、ダグ・ロジャース(Doug Rogers)や、世界チャンピオンの岡野功氏、猪熊功氏等を育てた
アメリカの武蔵、講道館初の外国人教師、米国柔道界の立役者、ホプロロジー(hoplology: 武器や戦闘に関する研究)分野の国際的な第一人者
日本柔道に本格的なウエイト・トレーニング法を導入した先駆者でもある。
米国杖道連盟の創設者
神道夢想流杖道の免許を清水師範より受けた最初の外国人
英国BBC政策の全6巻「アジア武道シリーズ」がある

「青い目の武道家」又は「アメリカの武蔵」ドン・ドレーガーの略歴

1922年4月15日、米国ウィスコンシン州で生まれる。
七歳の時に柔術を習ったのを切っ掛けに、武道に興味を持つ。
ハーバード大学の大学院で電子工学を専攻。

戦時中、海兵隊の中佐として参加した硫黄島の戦いで日本兵の強靭さを目の当たりにし感銘を受ける。その後彼らの強さの背景となっている日本武道の研究に没頭する。研究の最短は、日本の精神の支柱である処の武道を稽古する事が最適であろうと思い立つ。

彼は後に師匠である清水隆次師範にこう語ったと言う。

「将来それ(日本武術)を米国の青少年に伝え、歴史の浅い米国の人造りの一翼を担いたい」と。

ドレーガーは来日し、当時、神之田師範が勤めていた四ッ谷の機動隊の道場で隊員と一緒になって稽古に汗を流していたという。
彼は偉大な武道家として様々な呼び名を持ってもいた。「アメリカの武蔵」、「講道館初の外国人教師」、「米国柔道界の立役者」、「ホプロロジー(武器、戦闘の研究)分野の国際的な第一人者」等々。
そして日本柔道に本格的なウエイト・トレーニング法を導入したのも彼であった。また、米国杖道連盟の創設者であり、外国人として神道夢想流杖術免許を清水師範より初めて受けた外国人でもあった。
清水門下にあっても彼の杖の術技に太刀打ち出来る人間は非常に限られる迄になった。各大会にてドレーガーの相手となったのが神之田師範であったが、彼らの親交はドレーガーの亡くなるまでの26年間に及ぶ期間続いていたという。
またドレーガーは生涯30冊以上の著作を残しているが、そのいくつかに協力者として神之田師範が登場している。

昭和45(1970)年、杖道普及の親善使節としてアメリカを訪問。清水、神之田両師範と共に真夏の米国を横断しながら、各地での演武、指導を、通訳も兼ねて一緒に回っている。この指導は「キャンプ武士道」と呼ばれた。
又昭和47(1972)年マレーシア、昭和55年(1980)年には欧州各国を巡る武道巡回を行っている。

彼の逸話として以下の話が伝わっている。

日本を舞台とした007シリーズの一つ「007は2度死ぬ」の中で、ボンド役(ショーンコネリー)のスタントマンを一部請け負っている。
女流武道家の三宅網子師範はドレーガーに誘われて清水師範と出会い杖道を始めたという。
作家のC.W.ニコル氏もドレーガーに影響を受けた一人である。氏の著作の「Moving Zen」(「わたしの日本武者修行」)にドレーガーのことが出てくる(ドレージャーとして)。
ニコル氏は著作の中でドレーガーの人となりをこう綴っている。

「…彼は長身、筋骨隆々、姿勢正しく、射るような眼光を持ち、何かあると、カラカラと大声で笑う。ドレージャーはそういう非常に印象的な人物であった。しかもすこぶる優しい人柄で、武道を習う門弟にいつでも援助の手をさし伸べ、必要な時にはジョークを飛ばし、友人や見知らぬ人にもかゆいところに手のとどくほど親切であった。」

「ドン・ドレージャーは私を出迎え、自室で日本式に鉄びんで茶を立て、小さな木箱の中に大切にしまってある、貴重な茶碗にその茶を入れてすすめてくれた。日本式の低い机の上には、彼のタイプライターと執筆中の原稿がおかれていた。ドレージャーは今日では多くの本を書き、もっともすぐれた西洋人の武道解説者として広く認められている。…中略 … 私たちは武道の話をし、私のような初心者が練習生活を送るのには、どうしたら一番いいかということを相談した。そして私はドンの提案を受け入れ、一室を借りて、同居し、責任と家賃を分担することにきめ、その翌日講道館から荷物を持って引っ越した。」
……
「私のそれまでの環境は親日的なものではなかった。私が少年時代に日本的なものに大きな興味を持ち出したときには、家中がふるえあがった。イギリス人も日本人と同じく島国根性を持っていて、おまけに、日本人には(結構なことだが)今までに手ひどい目に遭わされている。私の若いころのイギリスではまだ、捕虜の虐待、斬首、ジャングルの鉄道建設の話などがよく噂されていた。しかし、ドンは物事の違う面を見せてくれた。太平洋戦争に従軍し、硫黄島の岸で隣にいる戦友たちのバタバタ死ぬのを眺め、食うか食われるかの境地で日本人と対決し、日本人を殺したこともあったのに、この人ほどに日本人を愛し、尊敬し、武道と柔和の道を解している人はなかった。根性のせまいのは、いつでもまわりの傍観者たちである」と。

昭和55年(1980)年2月28日掲載の「サンケイ新聞」のコラムでドレーガーは2年後にハワイにホプロロジーセンターを開設するという夢を語ったっているが、その2年後に彼は病で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
彼は生涯数十冊の著作を著しているが、自分自身に関しての著述は非常に少ない。彼を実際に知るものは現在かなり少人数になっている。

昭和57(1982)年10月20日、生まれ故郷のウィスコンシン州ミルウォーキー市のWood National Hospitalで逝去。享年60歳。同年11月5日、東京麻生の国際文化会館にて追悼式がしめやかに催された。日本古武道振興会会長(当時)の小笠原清信、副会長(当時)の大坪指方、講道館の諸先生、古流の宗家や各界の師範をはじめ百数十名参列され、故人の功績を称え、遺徳を偲んだ。

清水師範は彼の事を偲んで、こう話している。

「彼(ドレーガー)は先ず武道は礼法からと指導を求めて来た。そして、その練習態度も良く意欲的で、その熱心さには敬服している」

彼ドレーガー氏はこう話していたと言う。

「日本精神を研究するには、まず日本古来より伝わる武道を知ることが最も大切であり、必要であると思い、この日本武道を出来るだけ身に付けたいため、希望をもって練習に努力、精進している。そして将来米国の青少年に伝えて、精神的にも体力的にも立派な米国人を作りたい」
という壮大な目的を持ち武道に取組んでいた、と。

昭和57年11月5日(金)に東京麻布国際文化会館にて武道葬催される。